『事実と小説の酷似は「事実は小説より奇なり」より奇なり』

「事実は小説より奇なり」という、私が好きではない慣用句がある。その理由も奇であるため、ここでは記さないことにする。

実際に小説よりも予期せぬことが起きれば「奇妙」と感じることは確かだろう。

一例を挙げてみよう。

旅先でかつての想い人と偶然出逢うという展開は(世に溢れ過ぎて最近は見られないが)多くの小説が持つファクターである。

このファクターを「事実は小説より奇なり」に当て嵌めてみると

例えば

ある人が「旅行先の北海道で想い人と出逢い、互いに恋に落ちて、美しい北海道を堪能する」という小説を読んで

同じ人が「旅行先の北海道で想い人と出逢い、互いに恋に落ちて、美しい北海道の地を堪能するが、そこで現在交際している相手とも出会した」という現実(事実)を体験したら

その人は「あぁ、事実は小説より奇なり」と感じるはずだ。

つまり、「旅先で想い人と出逢う」という、現実ではまず起こらない(小説家の想像上の創造物である)ファクターAに加えて、更に「交際相手とも出会す」という同様に稀なファクターBが重なったことで、希少さの確率(独立試行[ファクターA×ファクターB])はより低いものになった訳である。

これを体験した人物は、ゾッとする感覚以上に興奮に身体が支配されるのだろう。

ただ、ここで私が提言したいのは「事実は小説より奇なり」よりも「事実と小説の酷似は奇なり」である。

先のファクターAとファクターBの同時発生以上に、ファクターA(想像)が現実と寸分も違わないことの方が「奇なり」と感じると思うのだ。

すなわち、ファクターBは起きないが、小説に書かれたファクターA「旅行先の北海道で想い人と出逢い、互いに恋に落ちて、美しい北海道を堪能する」に関して「小説での宿泊したホテルと自分が宿泊したホテルが同じ場所で同じ部屋番号」であり、「小説での想い人の名前が自分の想い人と同じ名前」である……といった具合である。

しかもそれが、見えない力の作用によって、例えば「その宿泊したホテルは天候の悪化によりフェリーの運航時間が大幅に遅れ、やむを得ず選んだホテルだった」となれば、運命などという貧弱な表現では足りなくなるだろう。「小説ではホテルの受付が女性だったが、現実では男性だった」といった些細な違いに安心するのかもしれない。

このように、最初は小説と同じ状況を見つけて楽しんでいたのが、余りにも小説にぴったりと沿うように次々と展開されていく現実に恐怖を覚え、小説と同じファクターよりも小説と違うファクターを探すことに躍起になる。

なぜ、小説と違うファクターを見つけて安心するのか。

その小説の主人公は旅行の最後に亡くなることが、分かっているからだ。

チャウコン

コメント

タイトルとURLをコピーしました